前回の続きです。
札幌移住のススメ~明治1年の札幌の人口は7人だった!なぜ札幌は200万都市になった?(1)
札幌では今尚、伏流水(扇状地特有)の恵みを体験できるところがあります。
北海道土産で有名な「ノースマン」や「山親爺」を製造・販売している千秋庵製菓です。
紹介されたのは本店だと思いますが(中央区南3条西3丁目17番地)、何と街のド真ん中の店内で、地下90mから湧き出ている地下水が飲めるそうです。(美味しいようですが僕は未だ飲んだことがありません・・)
お菓子の製造にも使われているようで(多分ノースマンだと・・)、改めて札幌は水が豊富な街だということが分かりました。
ここで、先の古沢仁さんに変わり、案内人がタウン誌編集者の和田哲さん(わださとる)に替わります。
北日本最大にして日本三大歓楽街の一つ「すすきの」は官営の遊郭だった!
和田さんは札幌の歴史を研究している街歩きの達人と紹介されていました。
一行は「すすきの」の入口である「ススキノラフィラ」前に案内され、一つの不自然さに気付きます。
不自然さとは、南5条西3丁目と南5条西4丁目の北面に建つ建物だけが他と比べて少し引っ込んでいたことでした。
理由はその昔、この二丁角だけ塀(土塁)があった名残だとの説明です。
さて、それではなぜここに塀があったのでしょうか?
答え⇒「薄野遊郭」があったから
何と!開拓開始から(明治2年)僅か2年後の明治4年に「薄野遊郭」ができたということです。(薄野遊郭は塀で囲まれていました)
無人の原野から僅か2年です(驚)
明治の末には料亭が40軒程あり、400人近い女性達が働く、とても華やかな街だったそうです。
開拓の初期に札幌へ来たのは「役人」と「職人」達で、圧倒的に男が多く、女性が非常に少ないという状況であり、
「寒さ厳しい冬がくれば皆、暖かい実家に帰ってしまう」
「そうなると開拓は進まなくなってしまう」
「男達を北海道に留め置く方法は無いものか?」
という懸念から、開拓使が政治的な戦略によって官営の遊郭「すすきの」をつくったということでした(笑)
男って分かり易い生き物ですね(笑)
尚、当初は街の外れにつくられた遊郭のはずでしたが、薄野遊郭が出来てから4年後の明治8年の地図を見ると何と!既に周りに街が出来上がっていたそうです(笑)
薄野遊郭を中心に、想像もしていなかった圧倒的なスピードで街が広がって行ったということでした。
遊郭「すすきの」が無かったら今の札幌の発展はなかったかも知れない
それ程、重要なものだったということです。
遊郭で働く女性達も札幌の発展のために身を賭してくれたんですね。
すすきのの見方が変わりました♪
今度すすきので吞む時は、先人達のご尽力に敬意を表し、心して吞むことにします♪
(「ウソつけ!ただの酒飲み」とか思わないで下さい(笑))
<続く>
コメント