札幌移住のススメ~札幌はツギハギの街だった(ブラタ3)

札幌移住のススメ

今朝の札幌の道はザックザク、場所によってはツルッツルです・・・。

こういう日は細心の注意をはらって、気を付けて歩かないとスッ転びます!

後ろの足の蹴りは極力優しく静かにし、足で進むのではなく、重心を前方に置いて足が上体についてくるような感じで歩くと滑りません。

・・・どうでもいいですか?この情報(笑)

 

さて、ブラタモリ(NHK総合 毎週土曜PM7:30~8:15)の続きです。

すすきのを訪れた後、一行は「東本願寺前駅」に歩を進めました。

一行は「東本願寺前駅」のホームに立って南側の道路を眺め、東本願寺(中央区南7条西7丁目)東側の通りである「西7丁目通り」がズレている(曲がっている)ことに気づきます。

この時、タモリ達が立っていたのは開拓使が作った中心部の街の際(キワ)。

このように場所によって道がズレていることが、札幌が200万都市にまで発展したヒントだとの説明です。

ではなぜ道がズレてしまったのか?

実はその南側にも別の街があった!

開拓使がつくった札幌中心街の南には、明治9年に開拓が始まった「山鼻村」という農村があったのです。

山鼻村と札幌中心部1

上部の綺麗な碁盤の目は札幌中心部、下部の縦長の範囲は山鼻村です。

この時点では完全に別々の街だったということが見て取れます。

 

山鼻村と札幌中心部2

上部のピンクの範囲は札幌中心部の町割り、下部の緑の範囲は山鼻村の町割りです。

黄色は二つの町割りのズレを無理やり接続した部分。

見事にズレていますね~(笑) 直し様がなかったんですね!

だって、方々で勝手に開拓を進めてしまっているんですから(笑)

 

山鼻村と札幌中心部3

明治の初め、この山鼻村のように周辺には幾つもの街が開拓されていたそうで、

明治29年の地図を見ると今の札幌市の範囲で既になんと!20近くもの農村があったそうです。

札幌周辺に同時多発的に沢山の開拓地が生まれて、それぞれが独自の町割りをしていた。

その結果、パッチワークのようにバラバラだった街が張り合わされて点と点が繋がり、それが今の札幌の街になったという話でした。

その後、札幌の人口は戦後になって急増。北海道各地の炭鉱が次々と閉山し、仕事を求める人が札幌に押し寄せた結果、その受け皿として札幌周辺にあった幾つもの農村が急速に発展し、住宅地が一気に広がったそうです。

昭和20年の札幌市街(写真)

やがて街と街が次々につながっていき、最終的に現在の巨大な街になった。そうして札幌は200万都市へ発展したという話でした。


旅の最後、一行は豊平川のほとりに立つある石碑を訪れました。

そこにあったのは「札幌開祖 吉田茂八 碑」。

思い出しましたよね?

明治1年の時点では札幌には2戸7人しか定住していなかったこと。

西の一軒は「茂八」、そして東の一軒が「鉄一」と地図に描かれていましたよね!

この石碑が建っているところは茂八がいた場所。

そして豊平川の向こうには志村鉄一がいました。(石碑もあります)

二人は豊平川渡守となり以降、札幌の開拓に尽力したと伝えられています。

200万都市の記録に残るスタートはこの二家族だったということで締めくくっています。

 

自分が住んでいる街の歴史を知ると街を歩いている時も、寝ている時でも先人たちの尽力によって現在の自分の生活があり、今も見守られているような感覚に包まれます。

改めて大切にしたいと思います。我が街「札幌」を。


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